スポニチ
阪神・糸井嘉男外野手(41)が今季限りで現役を引退することが12日、分かった。
糸井が球団側に「進退について話し合いたい」と申し入れたことが今月4日に判明。この日までに両者で会談の場を設け、話し合いの末、背番号7は後進に道を譲る意向を固めた。糸井は来季の去就問題が表面化した翌5日には自身のツイッターに「しっかり話し また、ご報告させてください。」(原文まま)と投稿し、決断の時が近いことも示唆・・・・・
スポーツ報知
抜群の身体能力から「超人」と呼ばれ、日本ハム、オリックス、阪神で走攻守3拍子そろったプレーヤーとして躍動。首位打者と盗塁王
(中略)
糸井が先輩後輩を問わずに慕われている理由を垣間見た。18年10月。オリックス・小谷野(現野手総合兼打撃コーチ)が引退を決断し、同学年の阪神・藤川と私で「お疲れ様会」を主催した。その際、球児の発案により、サプライズゲストとして小谷野と日本ハム、オリックスで同僚だった糸井にオファーした。
当初は「難しそう」の返答も、「栄ちゃんのためなら」と忙しい合間を縫い、会が盛り上がった頃合いを見計らって「お疲れ様でした~!」と登場してくれた。しかも両手には、小谷野の似顔絵入りの大きな特注ケーキ。突然の出来事に小谷野は「ヨッピー(糸井)、ありがとう」と言葉を絞り出し、目を赤く
(中略)
自分のゾーンに入ると寡黙。繊細で孤高の天才のイメージもあった。それでも、近年は糸原ら若手にいじられるなど垣根は低かった。なぜ、糸井が愛されるのか―。4年前・・・・・
正直者で隠すことができない男だと感じた。糸井が日本ハムの主軸として活躍していた11年。優勝争いをしていた9月中旬のビジター・ソフトバンク戦後だった。欠場した糸井を取材しようと、報道陣が囲むと、いきなり「骨、折れているんですよ」と自ら告白した。
8月の球団発表では右足小指の「打撲」。しかし再検査で骨折が判明したという。まだ公になっていない事実だったので「言って大丈夫なの?」とこちらが心配した記憶が残っている。本人としては痛みを我慢しながら、本来のプレーができないもどかしさ、その上でチームのために出場したい思いが交錯し、真実を告げたかったのだろう。「大丈夫です」と、翌日マルチ安打をマークするなど、2位が確定するまで
(中略)
野手転向直後、2軍本拠地・鎌ケ谷のベンチには首脳陣の近くに「糸井」と書かれた“専用席”があったのは有名な話。「右中間」を知らなかった男は、当時の福良2軍コーチ(現オリックスGM)に基本ルールから野球をたたき込まれ・・・・・
若手に交じった早出特打は日課で、矢野監督も「ベテランがあきらめない姿を見せてくれている」と感嘆。オフの自主トレには柳田(ソフトバンク)、吉田正(オリックス)、佐藤輝(阪神)らが慕って参加。圧倒的な練習量を誇り、球界のスラッガーたちから尊敬される存在だった。
投手として、近大時代は最速150キロを超え、03年にドラフト自由入団枠で日本ハムに入団した。だが、1軍登板はなく、プロ3年目で外野手に転向。並外れた練習量と身体能力でスターダムを駆け上がった。オリックス時代の14年に首位打者、16年に盗塁王を獲得。そんな「超人」もついに現役生活に別れを告げる。
◆糸井 嘉男(いとい・よしお)1981年7月31日、京都府生まれ。41歳。宮津高から近大を経て、2003年ドラフト自由枠で投手として日本ハム入団。06年途中で外野手に転向し、07年に1軍初出場。13年にオリックスにトレード。17年、阪神にFA移籍。14年に首位打者。16年に盗塁王。11、12、14年に最高出塁率。ベストナイン5回、ゴールデン・グラブ賞7回。オールスター出場10回。13年WBC日本代表。今季年俸8500万円(推定)。188センチ、99キロ。右投左打。・・・・・
日刊スポーツ
度重なるケガと付き合いながら、通算1726試合に出場。大卒の投手出身ながら、打率2割9分6厘、1754安打、171本塁打、765打点、300盗塁の好成績を残した。数々の珍発言を繰り出す代名詞の「糸井節」も、不動の人気を支えてきた。19年もの間走り続けた超人が、プロ野球人生にピリオドを打つ。・・・・・
よっぴ(´;ω;`)
ドメさんに続いて糸井も現役引退か、お疲れさまでした。寂しい