88年に就任した村山実監督は、大野をはじめ、売り出し中だった和田豊、中野佐資(さとる)の3人を、当時のトップアイドルグループになぞらえて”少年隊”と命名した。
この年、大野は130試合に出場するなどレギュラーポジションをつかむと、翌年には3割をマーク。福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)に移籍した91年には盗塁王に輝いた。しかし、この年が選手生活のピークで、中日に移籍した95年限りで現役を引退(中略)
吉田はカンナム・リーグのニュージャージー・ジャッカルズでコーチ業もしており、自分もそこでコーチ修行をしたいと頼み込んだのだ。
吉田の口利きもあり、球団からOKは出たが、その条件というのが、ギャラなし、渡航費は自前、住居は球団と交渉中で、うまくいけばホテル、そうでない場合はホームステイ、それもダメならエージェントの自宅に居候という過酷なものだった。
それでも大野はこの条件で受けた。「次へのステップのためだから気にならない」と大野は笑う。むしろ世話をしてくれたエージェントと受け入れてくれた球団に感謝していると言う。
「まだ実際に見ていませんし、聞いた話だけで、ほとんど想像ですが、カンナム・リーグは独立リーグのなかでも可能性のある人たちが多くいるリーグだと思います。エージェントの話によると、あと走塁の技術が身についたらメジャーの可能性もある選手がいるとのことです。
そういう選手が、もし3Aやメジャー、さらには日本に助っ人として来たときに『誰に教わったんだ?』ってなるでしょ。そのときに僕の名前が出てくれば嬉しいですよね。それに、日本の12球団ともコネクションがあるので、橋渡し役もできるんじゃないかなと……。とにかくアメリカに行って、『あの日本人コーチ面白いね』となれば・・・・・
少年隊!
吉田さんて何者ですか?